人間関係において、主要なる意思疎通の手段とは何でしょうか。話すことと聞くことです。ところが、統一教会員たちの多くは、主に、”話す”ことに重点を置いた祈祷をしています。特に、神様に何かを求めようとする請願的な祈祷をします。しかし、その反面、多くの場合、私たちは”神に聞く”ことをしません。私たち自身を静かに整え、神様が自ら顕現なさる、沈黙の空間を準備しないのです。
私たちが対話するとき、ある程度の言葉を話してみれば、言葉全体の感じを左右する沈黙の時間があり、文章のピリオドもあるのです。注意深く沈黙の一瞬一瞬に耳を傾けてみれば、その沈黙が、先に私たちが話した内容に、より大きな深見を加えてくれるという事実を知るようになるでしょう。
言語学者のある研究によれば、人間は、意思疎通の90パーセントを言語以外の方法を通して行っています。10パーセントだけが言語を利用しているのです。このような観点から見れば、単純に話しているだけの祈祷を通して結ばれる神様との関係は、どれほど限定されたものになるでしょうか。
聖書は、「静まって、わたしこそ神であることを知れ」(詩篇46篇10節)と教えています。私たちが復活と希望、善の途絶えることのない源泉になる無限の知恵を発見し、感じられる所、同時に神様がもっていらっしゃる深い悲しみと傷を、少しでも感じられる所は、正に”深い沈黙の中”なのです。「天和堂」P31〜P32
Dark remains / Tanozzoたしかに、何をどう話そうかばかりに気がいって、神様からの返事を待つ沈黙に関しては、あまり意識をしていなかったと思います。
代表祈祷をする時はなおさらで、その時その時の、場面にあった祈りというものはあると思いますが、心から、神様に通じたと思えるような祈祷は、あまり実感がないかもしれません。
数十年生きてきた中で、祈祷をするなんて事は、統一教会に来てから初めての事でした。
初めて祈祷なるものを始めてから、もう十数年立ちますが、今もなお、祈祷は私にとって、苦手な分野です。
親と話すのに、苦手も何も本来はないはずですが、苦手に感じてしまう程、どこか、ずっと遠く、高い位置に、神様を、おいやり、位置づけてしまっている自分なのだと改めて感じました。
言葉のテクニックではなく、心の底の、深い部分で神様とつながっていきたいと感じました。
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