御飯を食べるのも忘れ、寝るのも忘れながらその生活の裏面で父に対する懐かしさをもって「お父様」と言えば、父の手に捕まるようになるのです。
夢のような事実が起こるのです。
「お父様」と言えば父の懐に抱かれるのです。
このような表現的圏において体恤的感情をどのように体得するのかということは信仰生活で何よりも貴いということを知らなければなりません。
そのような体恤の感度、感じる度数、その量いかんがその人の信仰基準になり得るのです。
そのような愛の心情をもったならばどこかに行って「私がこれをしなければならない」という時は、「天よ、共にいてくださるように」と言う前に既に神様は共にいるのです。
このようなことを皆さんが感じれば、「有り難い神様」と言うようになるのです。
「真の神様」P20
普通に生活して何事も無ければ、ご飯も寝るのも忘れて神様を求めるなんて、そうそうないと思います。
何か逆境に立たされた時や、試験などここ一番の時など、”わたし”がピンチな時程、何かにすがりたいともうしましょうか、それこそ神頼み的な感じで神様を自分勝手に呼んで。
自分が良くなると、いつの間にか忘れてしまったりして・・・。
それでも、神様はこんな私でも許して下さり、守ってくださり、いつになるかわからない成長を、本当に気長に気長に信じて待ってて下さっている。
自分は一人だけど、一人じゃない。
一人だと思っている時ほど神様は近くにいる。
神様を知るまでは、私は生まれてきた意味がどうしても分からず、自信が持てず、自殺も考えたこともありました。
けれど今思うと、今まで感じてきた辛い思いは、神様と出会うための摂理。通過しなければ気づくことの出来なかった自分だったと思います。
そう思えば、どんな小さな事でも無意味な事はなかったし、全ては神様への道へ通じるものだったと思うと、神様の愛だったと心が安らかになります。
私以上に私の事を分かってくださっている、親なる神様。
もっともっと神様を知って、孝行することが出来る自分になっていきたいです。
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